※ネタバレを含みますのでご注意ください。
社会現象を巻き起こす大ヒットとなった映画『ジョーカー』(2019)。
そして待望の続編『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』(2024)の評価は賛否両論となっています。
『ジョーカー』も評価が分かれる作品でしたが、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』はさらに評価が分かれることになりました。
なぜ賛否両論となったのか考察していきたいと思います。
映画『ジョーカー』賛否両論の理由
映画『ジョーカー』は、社会現象を巻き起こすほどの大ヒットとなり、興行的にも大成功を収めました。
さらに、アカデミー賞11部門にノミネートされ、主演男優賞、作曲賞を受賞したことを始め、数々の賞を受賞しました。
しかし、多くの物議を醸す作品でもありました。
DCコミックス『バットマン』シリーズに登場するスーパーヴィラン(悪役)であるジョーカーの原点、誕生秘話を描いた作品ですが、これまでの作品に登場しているジョーカーの過去を描いたわけではなく、これまでの作品やキャラクターとは関係がありません。
主人公アーサー・フレックがいかにしてジョーカーとなっていったのかを、現代の社会問題と関連づけて描いた作品です。
アーサーは、虐待、いじめ、精神疾患、貧困、孤独、認知症の母の介護など、あらゆる不幸や理不尽を一人で背負う、社会的弱者の象徴のような存在でした。
それでもアーサーは健気に生きていました。
しかし、さらに不運が重なり一線を超えてしまいます。
そして、心ない人々の悪意によってジョーカーとして覚醒してしまいます。
何よりも蔑まれ、笑いものにされることだけは許せなかったのでしょうね。
現実の世界は、映画『ジョーカー』の世界と同じ格差社会であり、多くの方がアーサーが抱える悩みに共感、同情したでしょう。
そして、アーサーがジョーカーになって社会に復讐してくれることを望んでいたと思います。
映画の中でジョーカーを讃え熱狂的な信者になっていく人々と同じように、『ジョーカー』の熱狂的なファンとなり、映画は社会現象を巻き起こす大ヒットとなりました。
とても現実的で、この狂った世界と不満を描いてくれているとして受け入れられた映画だったと思います。
それに対して、暴力や殺人が正当化されるような内容に、暴力を誘発する可能性がある危険な映画だとする声も当然ありました。
映画に触発されてジョーカーのようになってしまう人を生み出してしまうかもしれないと、現実社会への悪影響が危ぶまれました。
そして実際に事件も起きました。
しかし、それは映画の責任ではないと思います。
トッド・フィリップス監督と主演のホアキン・フェニックスも、これについてインタビューに答えています。
『ジョーカー』暴力を誘発すると米国で物議 ─ 2012年『ダークナイト ライジング』銃乱射事件の映画館では上映なし、被害者遺族とワーナーが声明を発表-THE RIVER
また、暴力的な傾向のある精神疾患を持つ人がジョーカーのようになるという見方を強めているという批判もありました。
ジョーカーのキャラクターは、マーティン・スコセッシ監督作品でロバート・デ・ニーロが演じた『タクシードライバー』のトラヴィス・ビックルと『キング・オブ・コメディ』のルパート・パプキンに影響を受けており、精神疾患に苦しむ二人のキャラクターを利用していると、映画監督のデヴィッド・フィンチャーも批判しています。
デヴィッド・フィンチャー監督、映画『ジョーカー』を批判「精神的な病を利用している」-ELLE
どうしても批判されてしまうような内容の作品であるため、賛否両論となるのは仕方のないことだと思います。
フィクションとは思えない、あまりにも現実的でリアルな描写がされているということも大きいと思います。
映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』賛否両論の理由
そして待望の続編『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は、前作とは異なる理由で賛否両論というか、批判の嵐でした。
前作『ジョーカー』のファンであればあるほど、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は期待外れだと感じたのではないかと思います。
前作のファンは、ジョーカーがカリスマ性を発揮して革命を起こし、社会に復讐していくことを見せてほしいと思っていたはずです。
私もそう期待していました。
しかし、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は、全くの予想外の物語だったため、「前作を台無しにした」「残念な続編」などと批判のコメントが殺到しました。
あの有名なスーパーヴィラン「ジョーカー」の登場を期待していたなら、当然の評価です。
自分もジョーカー信者と同じ気持ちだったのだと気づいて怖くなったというコメントもありました。
失望した、がっかりしたと感じた人は、まさに映画で描かれた落胆したジョーカー信者たちと同じだということです。
”フォリ・ア・ドゥ“というタイトルは、映画の中だけでなく、観客にもジョーカー信仰が感染していることを示しているのかもしれません。
フォリ・ア・ドゥとは、フランス語で「二人狂い」の意味。一人の妄想がもう一人へと感染し、複数の人々と妄想が共有される精神障害のこと。
トッド・フィリップス監督は、そもそも前作『ジョーカー』がそのように評価されるとは思っていなかったようです。
ジョーカーに祭り上げられていく可哀想なアーサーという人間の物語を描きたかったようです。
また、初めから続編ありきではなく、1作目の撮影が終わる頃にホアキン・フェニックスがアーサーの夢を見たことが、アーサーというキャラクターを掘り下げていく2作目を考えるきっかけとなったとのことです。
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』トッド・フィリップス監督直撃インタビュー「アーサーの歌は、すごく生々しくて切望している感じ」-海外ドラマNAVI
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』では、前作『ジョーカー』でジョーカーに魅了されてしまった観客にも、ジョーカーではなくアーサーという人間を見てほしいという思いがあると感じました。
そして、ジョーカーは一人のカリスマのある人間ではなく、犯罪者に対する偶像化された概念のような存在だということを示したと思います。
ラストでは、新たなジョーカー、『ダークナイト』(2008)でヒース・レジャーが演じたジョーカーが誕生したことを示唆するようなシーンがありました。
エンターテインメントとしては、ジョーカーがカリスマ性を発揮していく物語のほうが普通なのかもしれません。
しかし、それでは本当にただの普通の映画になってしまっていたかもしれません。
『ジョーカー』も『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』も、ジョーカーの物語ではなくアーサーの物語だったわけです。
そういう視点で見ると、『ジョーカー』と『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の2作は、社会派の深い人間ドラマとして評価できると思いました。
また、ミュージカルシーンに対する批判も、前作とのギャップからの批判だと思います。
前作とテイストが違いすぎるし、ミュージカルシーンがこんなにあるとは誰も思っていなかったでしょう。
誰もが思っていたのと違うなぁと感じながら観ていたと思います。
ミュージカル好きな私としても、多すぎて間延びしていると感じました。
つまり、単純に前作『ジョーカー』は期待通りで、続編の『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は期待外れと感じた方が多かったということだと思います。
監督が観客の期待を裏切ったのかもしれませんし、観客がただ自分が望むものを期待しすぎていただけなのかもしれません。
フランシス・フォード・コッポラ監督が「トッド・フィリップス監督は常に観客の一歩先をいっている」とコメントしているように、徐々に監督の意図が伝わり評価が変わってくるような気がしています。